2007年10月23日

●十三夜



  実家の、もうなくなってしまった古い家の2階にある8畳間に布団を敷いて、ユキは寝ていた。
  記憶が確かなら、あの日はそろそろ秋が深まる頃の月曜日だったはず。
  道路の脇に生えている銀杏の葉が、急速に黄色い色を際立たせていた。

  玄関という場所は、半分が外の世界と繋がっているのだと、ユキは理由もなく
  子どもの頃から思っていた。

   小学生の頃、学校で急に居心地が悪くなることがあった。
     居心地の悪さと気持ちの悪さの区別がいまだにユキにはよく分かっていない。
     まずお腹の中にもやっとした水のような、それでいて
    感触だけは綿毛のようなものが浸入してきて、
     そこから一歩も動けなくなる。
    それからすこし時間をおいて気持ち悪くなった。
     だから、明確には居心地の悪さと気持ちの悪さは
     別々のものなんだけど、
     必ずその二つは順番に訪れるので、
      しまいには身体が自然に反応するようになって、
      居心地の悪さを感じたら、気持ちが悪いと感じて
       最後の力を振り絞るようにしてトイレに駆け込むと
      胃の中のものを吐いた。
     なぜ居心地が悪くなったのだろう。
     家庭に問題があると学校の先生は言い、確かにユキの両親は
     いろいろな問題を抱えていたのだが、簡単に両親のせいにしてしまう
     先生の態度が不満だったし、それでは両親に申し訳がないと
      思ってもいた。悪いのは自分だと思えば、その方がいっそ気が楽だったので
   両親について考えることはそれから一切   やめた。
     いつしかユキは人前に出るとそれがどこであれ気持ち悪くなって吐きそうになったり、
    実際に吐いたりした。
    保健室に逃げ込んでも、トイレの中に閉じこもっていても、
     冷たい手で背中を撫で回されるような嫌な感触が背筋に張り付いて、
     どうしようもなくなってしまう。
  
   そんなときはよく学校を早退して家に帰らせてもらった。
   ユキが小学生の頃の学校では、頭が痛いとかお腹が痛いだの、
    適当な理由を告げれば、担任の先生は大して詮索することもなく、
     早退を許可してくれた。

    平下がりの良く晴れた平日に、学校の外はすれ違う人の姿もほとんどなく、
   荷台にたくさんの新聞を積んだカブが乾いた音を響かせて目の前を過ぎ去ると、
    急に息苦しくなってしまい、家への道を訳もなく急いだ。

    
     つま先立ちして歩くようにしてそっと家に帰ると

 玄関はいつだって少しひんやりとしていた。

  すりガラス越しに射してくる光が急速に弱まっていく。
   間もなく夕方を迎えようとする頃、外で働いていた祖母が帰ってくる。
    玄関に靴があることでユキの早退を察して、祖母は
    「  ユキ ・・・? 」と控えめだが

   よく通る声で名前を呼ぶ。
    もしユキが眠っていたらと、起こすことを躊躇っているようであり、
    早退している事実を祖母なりに受け入れているようでもある、 
     そんな声。
          記憶の中の祖母の声を思い出しながら
         どうしても顔が思い出せない。
         微妙な声のニュアンスは克明に思い出せるのに
     どうしてなんだろう?
     ぐっとこぶしを握り締めると
     なんとか像を結んで見えたのは
    祖母の口元で、それはいつも穏やかに笑っているように見えた。

   玄関について今まで深く考えたことなどないのだが、
     家の中がどんなに暑くても、寒くても
    どんなに甘酸っぱくても、
  しらけていても、ドス黒く濁っていたとしても、
   玄関先に腰掛けて靴の紐をゆっくりと結んでいれば、どうしたってひんやりとしてしまう。

自分がこれからとるべき行動について、
  扉の向こうに広がっている世界に果たして、
   今の自分は太刀打ちできるだろうか、とか、 なぜだかそんなことをつい、
   考えてしまう。

          「ユキ?」
           ひと呼吸おいて、シンノスケは名前を呼んだ。

      「何?」
        ユキは紐を結ぶ手を休めて、猫のような身のこなしでじっと見上げた。

   「ええと。そうだな。よくかんがえてほしいのは、どこにいくのかってことだよ」
           苦笑いしながら、シンノスケはいかにも困ったように、言った。

 「どこって、わたし言ってなかったっけ」
    ユキは答えた。
  「言ってないよ」
     シンノスケは、あきれた様子で言った。

    ユキは、目をぐるっとめぐらせて、考えているふりをする。
     それから少し首をかしげて
       おもむろに口をゆっくりと開く。

 だから玄関という場所をあまり好きになれない。

  「どこだっけ。忘れちゃった」ケロリとした表情で言い放つと、
    今度は丁寧にブーツの紐を解き始める。

 ユキのことをある程度わかっているつもりでいるのだけど、
 シンノスケはどうしてだかいつも引っかかってしまう。

 「いつも口からでまかせばかりしゃべってるんだこの子ときたら。わすれてた。」
   独り言のようにシンノスケは言った。

   「 全ては偶然の出来事で、
  運命は必然でなく偶然でできているのよ。知ってた?  」

    ユキはそれだけ言うと、自分の言葉に納得したように頷くと、
   シンノスケのニットキャップを脱がせると、自分の頭に被せて、
   スキップしながら鼻歌を歌いながら部屋の中に戻り、大きめの窓を開けた。
    ぐっと両手を伸ばしてノビをしながら「あ」とユキは声を上げた。

    窓の外にはよく晴れた夜空にぽっかりと浮かんだ月が見えた。
    上が少し欠けているので、満月のようなインパクトはないのだが、
     ずっと観ていると、しんみりと染みてくるような趣があった。
     不意にユキは小学生の頃に早退して、家で一人ぼっちで寝ていた時のことを思い出した。

    夕方に仕事から帰宅した祖母が、ユキのために
   「とにかく食べなさい」とおかゆを作って2階まで運んでくれたときに、
   「ホラ、見てみ。ユキ」と教えてくれたのが、ちょうどこんな月だった。
   
  「まるいお月さんを十五夜って言うのは知ってるな」と祖母は聞いた。
   早退をした居心地の悪さから、ややぶっきらぼうにユキは「知ってる」と答えた。
   満月の十五夜に、ユキの家では祖母が月見団子を供えるならわしがあった。

   「その十五夜の日と同じように月を眺めるのが“じゅうさんや”、
    十三番目のお月さんで、それが今夜の月だよ」と祖母は言った。

 どうして満月でもないのに十五夜と同じなのか、とユキが祖母に聞くと、
  それはユキがもうちょっと大きくなったら分かるように説明してやるよ、
   と祖母はいかにもその日が来るのを待ちわびているような
   悪戯っ子のようにニヤリと笑って教えてくれなかった。
  ユキは教えてもらえなかったのは不満だったが、
    ぶっきらぼうな祖母がこうしてたまにニヤッと笑う瞬間の顔が
  大好きだったので、それだけで満足した。

 そうだ。
  祖母はいかにも芯の強そうな、勝気な顔をした人だった。
  そういえば、十三夜のことを祖母から結局教えてもらっていないや。

  ユキが月を眺めていると、几帳面なシンノスケがユキのブーツを片付けて
   部屋に入ってくるところだった。

   「   ほら
     今夜はじゅうさんや 、 だって」
       
今夜はじめてみる表情で、ユキが跳ねるように言った。

   


posted by チキ at 19:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポエマーもたまに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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