2007年10月18日

●最後のメール

「 タクシーに乗って街に出よう!  」
 急にそう叫ぶと、ユキはさっさと身支度を始めた。
  
自分の部屋のちゃぶ台の上にあるバカラのグラスは、
誕生日にユキからもらったものだ。
 そのバカラのグラスは普段、冷蔵庫の中に冷やされていて、
 ビールを飲むときに、ビールと一緒に取り出される。
 そのグラスに注いだエビスビールを飲みながら、
  友達にメールを打っていたシンノスケは、
    一瞬ユキの気配のするほうへと目をやってみたものの

  「やれやれ」と
          声に出さずに呟くと、手元の携帯電話に目を落とした。

 メールを打っている途中でメールが届くと、
  書いている途中の文章が遮られてしまう。 シンノスケは 
  ちぇ、と舌打ちした。

とうきょうたわーにのぼったことないなんてめずらしいね
 
いまさら打ち直して漢字に変換し直すのもおっくうなので、そのまま送信した。

 『 来週末の土曜日か日曜日で調整しているんだけど、
                        良い?  』

 届いたメールは後輩のアキラからだった。
  アキラにはずいぶん前に5万円を貸したままになっている。
   本当はいつ返してもらってもいいのだが、
    アキラがいつまでも返しそうにないので、
     充分な猶予をとって、返すように促してみたが、
      どうも自分にとって都合の悪いことにはとことん勘が働かないらしく
       一向に返すそぶりを見せない。
     仕方がないので「今月中に」と申し渡したところ、
    連絡が途絶えた。
  
  そのまま翌月になり、
    それも月半ばになろうとする今頃になって連絡してきたのだ。
    来週の週末ということは今月末か、来月の頭か。

      お金を貸すときには、相手にあげるつもりで貸しなさいというのだが、
      幸い今まで貸した相手からは、きちんと返してもらっていたので、
       つい、人にお金を貸すときの心構えについて
       シンノスケは無防備になってしまっていた。
      とはいえその一方で、この展開はある程度、予測していた。
       「困ったなあ。でもなるほどね、そうきたか」というのが、
       シンノスケの偽らざる感想だった。
       であれば、とシンノスケは考える。
        気持ちを切り替える必要がある。
         それも潔く、ガチャンと。
          日曜日と月曜日の区切り目のように。
             夏があからさまに終わり、秋の第一日目を迎えた時のように。

      
     そのとき、窓の外をなにげなくぼんやりと眺めながら、
     緑色の缶のエビスビールを飲んでいると、
     ホップの青い香りはまるで夏の名残を惜しんでいるような気分になる。


   うっすらと曇った夜空には、
  
   生まれたての三日月がよちよちと

   おぼつかない足取りで

             浮かび上がっている。

 ごくり、とグラスに残ったビールを泡ごと飲み干す。

   満月までには返してもらおう。

 決心したら、もう引き返せない。
 どうしようもなくそんな気がしてきてしまった。
 満月以降まで延び延びになってしまうくらいなら、もうあのお金のことは忘れよう。
 それは自分がアキラに負けることであり、
 自分が今まで築き上げてきた全てが否定されることでもある。
 ガチャンと気分を切り替えるには、
 いっそのことそれくらいに支離滅裂なくらいの決心が必要なときがある。
 シンノスケはそれから、次の一手について「生産的」にいろいろ考えてみた。
 もはや決して生産的ではないはずで、その証拠にさっきからシンノスケは意味もなくニヤニヤしている。
 それは夕方から飲み続けているビールが多少なりとも、 影響を与えていることは否めない。

 「らいしゅうまつはむり。にじゅうさんにちのひぐれまでに。かならず。」
  とシンノスケは、自分にしては珍しく強硬な態度で返事を送りつけた。

 興奮して打っていたので、今回のメールは自分でひらがなにしてしまったが、
  今回もそのまま送信することにした。
       ぱっと見て、ひらがなカタカナの違いなど些細なことだ。

 どれだけ言葉を尽くしても

   たったひとつの言葉を

         伝えきれない

分かり合えているはずの恋人同士でも、
 ことばの意味は往々にしてすれ違っていることが多いのだし、
  アキラのように確信犯的に意味を取り違える相手に対してなら、なおさらだ。
  

   ともかく今は、  いまにもこの部屋を飛び出そうとしている(らしい)
   ユキを引き留めるのが先決だ。

携帯時計の時刻を見た。

現在午前1時37分。

ちょろいな、とシンノスケは笑う。まだまだ時間はある。
ありすぎててにおえないほどの無限大の時間帯。
それがユキとの関係を中にあるといいのだが、とシンノスケは唐突に考える。

 なにしろここで引き留めなければ、今度いつ会えるのか分からない。
そのことのほうはよほど重要なことだ。 
 ユキは鉄砲玉のようなヤツで、思いつきだけで行動している。

シンノスケは少なくともユキに関してそのように思っている。

「待てよ!」と、とりあえず言ってみた自分の声が、モノマネ芸人のホリに
  似ていて可笑しくなり、
  シンノスケはくすくす笑いながら
   ジャージのパーカーを羽織り、ニットキャップを被って出かける準備をする。

  「なにぐずぐずしてんのよ、いくよ」

  ユキはブーツの紐を丁寧に結びながら訊いてくる。

   いつだってそうなのだが、ほとんどの場面で自分には選択権はない。
  選択権があったとしても、いずれにしてもユキの望むようにしかしないだろう。

   などと一瞬だけ不毛な考えを起こす。
  この考えは綿毛のように軽くて実体がない、と思う。
  このかぎりなく存在感の軽くて薄い何かについて一言いっておきたいような気がしたが、
   もちろん言いたいことなど思いつかない。
   今日は夕方から飲みっぱなしだっていうのに、まったく。


posted by チキ at 17:45| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ポエマーもたまに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。