2007年10月15日

●フランボワーズ


つい翌日のことを考えて飲むようになった。
いつからだろう。
   学生であった頃や、学生気分の抜け切れなかった以前は、

お酒を飲むことで、いくらか自由でいられるような気がした。

大学を卒業してはじめて勤めた会社を辞め、
  そのあと何度も転職を繰り返して、今は
     フリーでウェブのデザイナーをしている。

   フリーになって自宅にいる時間が長くなり、
 冷蔵庫の中にビールやワインなどをしこたま買い込んでは
   仕事に「ひと区切り」がついたら、もしくは、
 ひと区切りついたと思い込みたいときに
        冷蔵庫からお酒を取り出して飲む習慣ができた。

赤ワインを冷やして飲むようになったのも
         最近のことで、以前は常温で飲むものと思い込んでいた。


デザイナーといえば、何だかクリエイティブな仕事のようだが、
     ウェブのデザイナーは少なくともそうではないと、思う。
    あらかじめ決められた設計図に従って作りこんでいくだけだ。
         それ以上に凝った仕組みや、依頼されていないことをする余地などない。

 リビングのパソコンデスクに座って、
     横目でチラチラとテレビを見ながら仕事をする。
   そうしているうちにあっという間に日が暮れていく。


  生きてきたことが良かったと一瞬でも思って欲しいの 」

午前4時、アパートの窓から見下ろす先にある風景は
 朝日が昇り始めるまでのひととき、空白の時間帯だ。

脳裏に焼きついているのはテレビの中の横顔。
その表情は、微笑んでいるように見え、
同時に絶望しているようでもあった。
  少女のようであり、老婆のようでもあった。
   悩んでいるようであり、

ただ単に歌をうたっているようでもあった。

赤ん坊の歌声が泣き止まない。
   どこかで誰かが幼児虐待を繰り返している。
 目に見えない暴力の連鎖について考えてみる。
    わたしは両親から暴力を振るわれたことがないのだが、
  そのこともひょっとしたら、ある一つの暴力であるのかもしれないと
  思うときがある。
    なぜだろうか、と考えそうになるといつもそこから先に思考が続かなくなる。
   頭の中にヨーグルトを目一杯吸い込んだスポンジの塊が詰め込んであるような気がして
少しの眩暈を覚える。

 そういうときに私は、仕事もテレビもそのままにして
   散歩に出かける。
     夜中だろうと早朝だろうと、構わない。
    早朝の駒沢公園で遠くにカラスの鳴き声を聞きながら
         必要最低限の必要性について考えてみたりする。
         必要でなければやがて消えていく。

 それはいやだ。

ふっと、意識を戻すと、赤ん坊の泣き声に聞こえていたのは
  野良猫の鳴き声だった。その甘やかしいねっとりとした
    フランボワーズ・リキュールのような声は、
 マンションの壁の狭い隙間を反響して、くぐもった赤ん坊の悲鳴のように轟く。

赤ん坊の悲鳴を聞いて、何とかしなくてはいけないと
   思う気持ちになるときに必要なもの。
    暴力からの救済であったり、あたたかな食事や寝床であったり。
 
  そういったものを野良猫もまた必要としているから、

    ああいう声で鳴いているのかもしれない。

  わたしたちは、聞こえてきた声が何の声であるかを知るよりも、
   その声そのものが含んでいる響きの中の緊張感やニュアンスのみに

   注意を向けていればいいような気がする。
     本当は それで済むほどに世界は単純であるはずなのに、
       いつしか私たちは難しく考えて、
     そこに本質があるような気になっている。


posted by チキ at 14:45| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | ポエマーもたまに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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