2007年07月23日

なるべく、なるべくして。


先日の日記にちょこっと書いたが、
身体がなんだか鈍重な気がして、
「それなら」と断食を試してみた。

朝起きてから、夜寝るまで食事をしないというのは
けっこう辛いのね(苦笑
忙しくて、結果として食べないことは
別になんともなくても、意識して食べないのは
なんだか辛い。

一昨日は寝る前に軽く食べて、
昨日は賞味期限の切れそうな焼そばを夜に食べた。
今日はうどん。

一日一食だが、結構身体が軽くなってきた。
このまま気分も軽くして突き抜けよう。
いろいろな場面をそろそろ突き抜けなくては、
と感じている。
仕事も人間関係も。
無理やりに何とかしたり、
全部から逃げ出すのではなく、
自然とふわっといきたいものだ。
簡単に言うと「いいカンジ」になりたいのだ。

ヨーガも部屋の掃除も、ダンスもビールも食事も。
僕自身が「いいカンジ」になるために取り組んでいる。

さじ加減がイマイチわかんないけどな(笑

まあ、とにかくチョッカンにしたがって、
今直面しているっぽい壁を突き抜けるぜ。

今の自分ではどうしようもないなあと感じていた
レビューをとりあえず書き終えた。
とにかく書かねば前に進めないから、
僕はかけないことでも何とか形にしようとしてもがく。
じぶんでもなかなかのカッコ悪さ。
もがいているなあと、自画自賛(笑


***


その日赤レンガ倉庫街の空には

とどのつまり、という慣用句がある。
「とどのつまり」の「とど」とは、
太平洋北部、冬には北海道でも見られるという
あの“トド”とは関係ない。
あのトドは漢字では「海馬」と書く。
「トドカレー」は北海道の土産物として、
「熊カレー」「えぞ鹿カレー」と並んで、広く知られている。
ちなみに我が家には「熊カレー」が今も封を開けられないまま
キッチンの収納の中にあるのだが、
熊を食べることに抵抗があるのではなく、
熊を食べることを神聖視するあまり、
食するタイミングを失っているだけだ。
賞味期限が切れるまでには食べようと思っております。

つまり、「とどのつまり」の「とど」とは、
魚のボラが成長していくにつれ名称が変わる、
その最終形態における呼び名であり、
そのことから転じて、とどのつまりとは
「行き着くところ」という意味で使われる。
付け加えれば、ニュアンス的に、
単なる結論を述べる際の枕としてというよりは、
「思いの他」といった、やや思わしくない、
残念なニュアンスをともなって使われることが多い。

で、とどのつまり。

ここまで、ダンスに一切関係なく、
意味のないことをつらつらと書き連ねて
大変見苦しく、またそのようなことを書くほかない我が身の
不甲斐なさが情けないことであります。

レビュータイトルを書いたとき、
「ああヤバい」と思ったのです。
ああ、アマリニモアリキタリな。。。
通常であれば、タイトルを考え直すところなのですが、
そのままにして何が書けるのかと、
ヨチヨチとキーボードをこねくり回した結果、
書いてしまったのがこのありさまです。

なので、「とどのつまり」と書いてしまう、その残念さが、
我が身の想像力のなさに向けられていることを、
まずはここにしかりと明記しておきたいのであります。



その日は2007年7月8日。
ダンスシード番外編として、
横浜赤レンガ倉庫街野外イベント会場にて行われた。
ワークショップ+公演イベント。
タイトルは青天井独舞「壁と海と踊る」。

梅雨の合間でなんとか持ち直したといった空模様のもと、
ワークショップは行なわれた。
進行役の池宮氏の掛け声によって、
ダンサーたちは波を観て、
空を感じ、壁に身を預け、
石畳を踏みしめていく。

過剰に動く人、静けさをたたえて
じっと横たわる人、
それぞれがそれぞれに持ち味を出し、
全体としての絵柄を見詰めるでもなく
すいと眺めていると、だんだん心地よくなってくる。

ダンサー独り独りが、
水上で湧き上がる波のひとつひとつになり、
空で風に吹かれる雲のひとひらになり、
壁のレンガのひとかけらとなる。

ワークショップを通じて、相反する動きを
お互いに繋げながら、呼吸までも合わせるようになっていく。
「背景」と「主役」といった役割分担を踊りで表現するなかでは、
動きとアイデアがだんだん練れてきて、
完成度の高い、感応度の高い動きを見せてくれるチームもあった。

魅せるチームと魅せないチームの差は、
どこにあるのだろうか?

ダンサーであるからであろうか、
それとも私が素人であるせいか、
動きが練れてくるにつれて、
動きとしてのスムーズさが出てくるのと引き換えに、
「どこかで見た」という動きで踊るダンサーが何人か目に付く。
屋内のスポットライトで浮かび上がる動きを、
いまや真夏の様相を呈してきた灼熱の太陽の下で見るのは、
どうにも忍びない。

広い広い砂漠の真ん中で
時を刻む砂時計を見詰めているような気分になる。

からりと晴れた青空のもと、本番を迎えることのできる喜び。
太陽の照り返しが身体の表面をこんがりと焦がす。
見上げる赤レンガの壁は何を思って
我々を見下ろしているのだろうか。

本番はとってもカオス。
饗乱の展覧会の様相となる。

来場者の声が聞こえてくる。
「宗教っぽくね?」
「あやしい〜」
「勝手にバラバラに踊るんだ〜」

一方で熱心に見ている人の姿もある。
いろいろな人がいろいろに感じる姿。
それも含めて「共存」であり、「一期一会」の
場ができているように感じた。

この日見たダンスは、ワークショップから見続けた分、
一種、ロードムーヴィーを眺めているようであり、
「身体を辿る旅」を見詰めてた、
それはちょっとしたショートトリップであった。

人生に旅は必要であり、
そして旅には終わりはない。
ありきたりの表現だが(というか、私のこの文章は全編に渡り“ありきたり”で満ちている)
人生そのものが旅なのである。

最後に出演者で意見交換をしたときに、
池宮氏が「ゆるい、大味なダンスだが、
そういう良さがある」と言った。

真意の程を汲み取れているかどうか不明だが、
とどのつまり、“そういう良さ”って好きだと思った。



最後に。
この日、ダンサーとして出演されたダンバラ氏に、
「全体的にさらっと見た感じのことを書きそうだ」
と言われてしまい、なんとかそうならないよう、
努力をするつもりだったが、
結局、ダンバラ氏の言うとおりとなってしまった。
途中、N氏のチャックが全開で踊っている様が、
なんともいえない迫力があってグッときたのだが、
それはダンスとは関係ないような気がする。


posted by チキ at 19:38| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | ギャラリー・アート・音楽・ダンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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