2011年01月30日

言葉を放つ



言葉を発する。
発言。
言葉の発露に垣間見えるのは
その人の内包する思考というか
精神そのもの
言葉の前に意思や思考
原始的な思念
のことなど考える。

私たちは脳で考えているのだろうか。

観たことないので分からない。

つい先日、私は脳が弱まっているのを感じた。
手元が疎か。

料理を作る際に、
いろいろな目算を見誤る。
脇に避けておいたワイングラスの高さのことを見誤り
胡椒を取りにいった手がグラスを倒す。
洗い物をしようとして、目の前の洗い終えたおたまに
おでこが当たるなど、それはいままでになかったこと。

いままでは、いろいろなものを
そのまま放置しておきながら
料理などはできていたのに、最近はよく
ものに当たりひっくりかえす。

ちょっと、これは脳が老化し始めているんじゃなかろうかと
うつらうつらと考えていた昨今。

うつらうつらとジャガイモを包丁で切っていたところ、
包丁が手元から、するっと逃げた。

足元にすとーんと包丁が落下する。
そのときである。
私の身のかわし方といったら。
機敏なことこのうえない。

思考の余地のない刹那の動作。
そんなふうにして一瞬の身の動きができたことで、
なんとなく深く安堵する。

肉体と脳の深い関連性について。

普段なんとなく頭では分かったつもりでいても
そのことを実感することは、ほとんどない。

ここのところヨガをずっとサボり続けていることが
ずっと気になりながらも、なかなか再開することができていない。

肉体と脳の限界のちょっとした何かを
感じたくてヨガをやっているのだが、
ときどき、そんなことなどどうでも良くなる。
じっさいに、どうでも良いことなのだ。

いまこうして、言葉を書き連ねていることにも
たいした意味などありはしない。

でも、言葉を放つ。

言葉を放つことの意味。

ヨガを続けることの意味。

そこに意味などありはしないのだろう。

だが、日常の中で、包丁を落とした時に発露する
肉体に秘められた限りない可能性。

包丁が足に向かって落下する速度。
なぜ落としたかの原因と、落下する速度と
地球の重力の関連について。
また、そこから退避することの緊急性と
その可能性について。

考える前に動くカラダ。

日常の中で積み重ねられてきた学習能力と
考えるよりも前に動くことは
これまでの生き方がそういうカタチで
発露したというだけのこと。

日常の中に繰り返し行うことだけが
ある瞬間に発露するのであれば、
それは自分にとっては
言葉とかヨガでありたいと思う。

posted by チキ at 15:53| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々徒然に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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